私はほとんどのことを左手でやるのだけど(そういうのを左利きというわけですね。利き目、っていうのもあって、それも私の場合は左だし、手を組んだときも左手の親指が上になるので、それはなんて言うのか知らないけどまあ左利き)、文字だけは小さいころに強制されて右で書きます。
細かいけどついでに言うとハサミも右手。
左用のハサミはなかなか売ってないからね。

文字はそういうわけで私は右手で書くわけですが、とりあえず日本文字はひらがなカタカナ漢字みな右手で書くようにできているのだなあと思います。
書き順で右から左、というのはたぶんほとんどないか全然ない。
アルファベットは一個一個はぐるっと回ったり下から上に動くのもあるけど文章は左から右ですね。

しかしアラビア語は右から左に文章を書く。
アラビア語を私はさっぱり理解しないのでこれはいい加減なのですけど、でもアラビア語圏だけ左利きの人が多い、ということはないでしょう。
ならばなぜアラビア語は右から左に書くのか。
そして右利きの人でも右から左に書いて書きやすいように「アラビア文字」そのものができているわけで(きっと、たぶん。おそらく当然)、それはどのような感じに右利きの人が書きやすい右から左の「文章書き順」なのか。
文字そのものに理由があるのか?
教えて。
エラい人。

あー、音符も右利き用なんでしょうねえ。
どうでしょ。
書き順とか習わなかったなー。

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05/12: 迷路

子供のころ迷路が大好きでした。
やるだけではなくてそのうち自分で作ってました。
ものすごく細かいのを。

ある程度以上の長さの曲を作るとき、私はメモを取ったりする前に結構長い日数を書けて頭の中だけでシュミレーションをします。
演奏をしてみる。
やることのない、湯船に浸かっているときとかが多いです。
日によってその経路は変わる。
ある地点で、昨日行った方向と違う方向へ曲がってみる。
その繰り返しで少しずつ道ができてくる。
ちょっと迷路を解くときと似ているな、と思いました。
ゴールまで見えてから書き出す、というほどにはこらえ性はないので、それまでの道がゴールにつづく道だ、と根拠なく確信したとき(それは「そこまでの道が魅力的だ」というだけで十分)、風呂場の脳内迷路探索は終わります。

もっとも、実際に書き始めると、シュミレーションした経路どおりに進むことはまずないんですけどね。

P
CD はどうやって分類してますか。
適当に棚に突っ込んでる?

すでに持ってるのを忘れておんなじCD をまた買ってしまう、という失敗を最近立て続けにやらかしまして、分類したら少しはましかもと思い並べ直したのですけどね。
音楽やってるわりにはそんなに多くなくて500枚くらいです。
その程度で持ってるCD 忘れんのかよという話ですが。
どうしても作曲家目線でCD も買ったりしますので、ジャンル分けも基本は音楽史の区分でいけます。
アーティストメインのCD はあんまり持ってないから。
現代音楽300、古典30、という比率には笑ってしまいますが、まあそのへんはそれでよくて、問題は、自分の中で別のくくりができていて、それを無視して上のやり方で機械的に分類していくと気持ちが悪いという場合。
アルベニスのピアノのCD と村治香織(アーティストメイン持ってんじゃん)とマドレデウスとジスモンチはおんなじなのね。
おんなじなのよ。
というわけで「何となくラテン」というジャンルができました。
あと、ロシア。
といってもほぼショスタコーヴィチなんですけど。
「ショスタコ」というジャンルにしようかと思ったのですが、1枚だけ持ってるミャスコフスキーは「現代」とかに入れてしまうと探し出せなくなってしまう恐れがある。
タコつながりで認識してるから。
というわけで「何となくロシア」というジャンルができました。
でもねー、ラフマニノフは「何となくロシア」枠じゃないんだよなー。
シュニトケは?
あー「現代」。
グバイドゥーリナは?
「現代」。
このへんは私の中でタコつながりじゃないってことですね。
ジャンル名「何となくタコ」に変更。
分岐は8本まで。
なんの分岐だ。

ちなみに地元の図書館のクラシックのCD の棚を見ると、ラベルを貼って分類されているのだけど、で、ポピュラーとかはアーティスト名のあいうえお順に並んでますがクラシックではそうもいかず入荷した順に通し番号が付けられている。
男らし。
これはこれでわかりやすいのかもね。

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全く時間がたってしまいました。
前回の投稿(2月かよ!)でなにやら「つづく」みたいなこと書いてますが、つづきません。
いつかつづくかもしれないけど今日はつづかない。

今日のネタは「絶対音感はぜんぜん絶対じゃない」ということについて。
いきなり結論を書いてしまいました。
とはいってもこれは私のケースなので「絶対にゆるがない絶対音感」を持っている人、というのもいるかもしれません。
だいぶ前にヒットした最相葉月さんの「絶対音感」という本、読んだ人おぼえてますか?
2セント音が違うだけでもずれていると感じてしまうほどの「絶対音感保持者」も何人か出てきてましたね(2セントずれた「ふたつの音」を同時に聞けばほとんどの人は「そのふたつの音は違う」ということはわかります、そうでなくて「ひとつ」聴いただけでいつも聴いている「ラ」とは違う、ということがわかるという意味です)。
これから書くことの前提として、私の場合、4分の1音くらいずれていたらわかるかなという程度には絶対音感はあった(これはまあ微妙ですが、基準音を示されなくても「シ・フラット」は「シーフラットー」と言いながら私の耳に入ってくるので、絶対音感は絶対音感)。
あった、のですが。

はたちくらいからギターを弾くようになりました。
で、それはひとりでがちゃがちゃやるだけで誰と合わせるでもないので、調弦するときに音叉とか全然使っていませんでした。
絶対音感いちおうあるわけで、「ラ」もだいたいわかるし。
で、あたりまえですが弦楽器ってのは弾いてれば(弾いてなくてもほったらかしておくとある程度までは)弦はのびます。
クラシックギターの弦の場合、上3本のナイロン弦は張り替えて1週間は、一日半音くらいづつ下がる。
3日弾かなかったら半音×3日分下がるのかというとそうでもなくて、半音ほど下がったところで落ち着くからそんなにどんどん下がるわけでもない。
弾こうと思って手に取って「あ音低いや」というわけで、まただいたいの「ラ」にあわせ直す。
がちゃがちゃ弾く。
それでまあ、特に問題はなかったわけですね。
ところが。

それに気づいたのは5年後くらいでした。
例えば、Fis dur の曲がG dur に聴こえてくる。
というより、最初に現れた症状としては、初めて聴く曲を「G dur だ」と思ってあとで楽譜を確認する機会があるとFis dur だった、というような、楽譜を確認したことのない曲からそれは現れました。
楽譜上の音より高く聴こえる。
そして、それは主音が派生音である調の場合に多い(C dur とかではそうでもない)。
けれども、それらの症状は日を追うにつれ進行していきます。
よく知っている(ピアノで昔さんざん弾いたこともあるような)曲も、CD などで聴くときにふと半音高く聴こえることがある。
「何だこの曲」と思ったら「d moll」に移調された!月光ソナタだったり。
また、主音が幹音の調で書かれている曲でも半音上がりの症状が出てくるようになる。
それでもまだ、弦楽器の解放弦のような、特徴のある音が鳴るとそこから脳内音叉が修正されるようで、そのあとある程度は正しい音名で聴くことはできたのですが、、、

さらに数年後。
先日、ギターの演奏会を聴いて、もはや私の絶対音感は完全に半音下がってしまった、と確信しました。
E dur の曲がぜーんぶ、F dur に聴こえました。
クラシックギターの奏者はカポタスト使いません。
クラシックギターは解放弦を多用する曲が多いです。
そして、私がいつも自分の脳内音叉で調弦していた同じ種類の、ギターという楽器の音が、ぜーんぶ、半音高く聴こえてきて、最後までそれは正しい音名に修正されませんでした。
気持ち悪かった。
F のコードを弾くには1フレットをセーハしなくてはいけないのに、ありえないハイポジションの音がぼんぼん聴こえてくる。
うーん。

つまり、私は10年ちょっとをかけて、毎日半音下がるギターの音につられて少しずつ少しずつ、自分の絶対音感をずり下げていた。
弦を毎日半音あげていたつもりが完全に半音上げられはせずに、例えば、半音=100セント戻したつもりが毎日99セントくらいづつとかしか戻していなかった。
面白い人体実験をやってしまいました。

いま私の耳には「シ・フラット」は「シーナチュラルー」と言いながら飛び込んでくるわけですが、「うそつけこのやろう」とピアノの鍵盤を叩いて修正します。
めんどくさくって修正しないときもあります。
修正しなくても音楽は楽しめる?
私もそのうちそうなれるかもしれませんが、少なくとも楽譜を見たことのある曲(もしくは曲名に何調、とかある曲の場合)ではいまは無理です。
音名で飛んでくる音と、その曲のプロファイルがずれているのです。

いまより基準音が半音ほど低かった時代からやってきた浦島太郎。
ルート太郎・ヴァン・浦島。

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ちょっとまえになる話ですけど「allways続・三丁目の夕日」、見てきました。

前作同様、あの昭和を再現したCGは(たぶん)見事で、まあ、もっとも、いまどき「本物みたいだ」なんてのはCGをどうこう言う基準にはならないんでしょうけど、「本物かどうか気にする瞬間はまったくなかった」わけで(イントロがCGなのは小学生以上ならわかりますけどね。怪獣出てくるから)。

問題は。
なんでそこまでベタにするか、というほどの話の展開はともかくとして、あと、歳を取ると人間はおおむね涙腺が弱くなる、ということもここでは棚に上げるとして。
音楽。
あー、そろそろこのタイミングで来るんだろうなーと思っているとほんとに来る。
ボリュームが上がって、えーと、ここは適当に書くけど、例えば平行調とかね。
ま、何でもいいです。
それはほんとに、あまりに手垢のついた、いたたまれなくなるほどの、黄金パターンの連続でした。
にもかかわらず簡単に泣いてしまうというこのていたらくは一体、とやや悲しくなりながら、映画の途中から私の興味は内容でもストーリーでもなく、「音楽の持つある種の効能」について、であったので、、、


以下はとりあえずのメモです。

・「人間の感情」と「音楽」は、その「シルエット」が似ている
・シルエットが似ているのであって、それぞれの本体は本物と影絵の関係のように別物である
・一般の人ばかりでなく、多くの?音楽家もが「シルエットの相似」からそのふたつを混同していることが往々にしてあるのはなぜか
・そのように錯覚?または信じ込んでいることの「現実的」な現象について、「現実的」な観点からと「理想的?」な観点から考察する

・ワーグナーとナチス(ナチスドイツ下のドイツ社会)、軍歌と大日本帝国(帝国下の一般庶民)、ロシア民謡と歌声運動
・音楽はそれぞれの場で一定の効能があったと思われる。それらは(その目的の善し悪しは別にして)、そこに集う人々からその「運動(広い意味で)」についての本質的な思考を放擲させ、もしくはその責務を猶予し曖昧にし、なおかつ能動的に参加しているという錯誤を与えるような効能があったのではないか(それはどこまで正当か)

・音楽家として(もっと限定的に言えば、作曲家として)そのような「音楽の効能」はどこまで認められるべきか


私はですね、青臭いことを言いますけど、音楽は、目的だ、と信じたいと思っています。
本丸は、ってことです。
ではない、例えば映画音楽を書くこともあるでしょう、そういうときの音楽は、音楽が目的ではない。
そんなとき、どの辺りに線を引くのか。
「音楽の効能」を、音楽の「人への効能」を、なんにも測らずに(「沈黙と測り合えるほどに」、なんつう高尚なことじゃないです)平気のヘイザでできることじゃない。
映像に音楽を付けて人を泣かせるなんてことは簡単なことです。
ボリューム上げて平行調に行けば人は簡単に泣いてくれます。
でもね。
その意味を、もっとよく考えてみるべきだ、と思うのです。

この話はたぶん続きます。
そのうち。

P
うららかな初春の日差しが続いております。
皆様いかがお過ごしでしょうか?

 最近、「二十歳のころ」と云う本を読んでおります。
96年秋から98年春までの間、立花隆氏が開講していた
東京大学教養部のゼミナールの共同作品です。
内容は、ゼミに参加する学生が著名、無名問わず様々な人に
その人の「二十歳のころ」について取材し、まとめたものです。
 
 多くの人にとって、二十歳のころの経験が、
その後の人生に大きな影響を与え、生きずいているように思えます。
私は現在二十歳で、まさにクリティカルな、貴重な時期を
出来る限り大切にしようと思います。

マザーアース O
なんかもういつのまにやら今年も終わりになってきました。
書くネタがなかなか見つからないわけなんですけども(変な登場人物とか作ってふざけてるからですねえ。笑かさないといけない、という。芸人か)。

久しぶりにハノンなんか弾いてみます。
いい歳をして、というか別にピアニストでもないのに、というかこんな年の瀬にハノンなんて、どうせだったらクリスマスソングでもなんでもおしゃれに弾く練習をしときなさい、急に振られたときにちょろっと弾けたら株上がるかもしれないでしょ、とか思うんですけど。
ええと、補足しておくと、かつて青い青い偽物のベートーベンだった頃(遠い目)、そんなまねは死んでもできませんでした。
けっ!!ぐらいの。
リチャードクレイダーマンけっ!!ぐらいの。
ああ、まだアデリーヌを平気な顔で弾けちゃうくらいには神経は太くなっていませんが、クリスマスソングぐらいならもう余裕です。
・・・堕落? 黙れよ利朗。

ハノンです。
昔はもう少し速く弾けた感じがするんですけど、左手のちょっと細身の二人がついて来てくれません。
でも、これをまじめにやってただろうと思う頃も、ちゃんとわかって練習していたのかというと、私の場合はあやしい。
スポーツと同じで、今自分に足りないものがこれだからそのためにこの練習をする、という目的と意図を理解していないと同じことをやってもあんまり効果はないのでしょう。
また、能力が上がるということに喜びを感じるようでないと、とくに子供にはむずかしいことだと思います。
そして、私にはそのどちらもなかった。
大人になってから気づいてもね、こういう運動神経の問題はもう遅い。
ほんの少しは上達するかもしれないけど。

それを考えたら作曲はいいなあ。
やろう、と思ってからはじめればそれはいつでもいい。
耳の善し悪しはある程度は運動神経だとしても、それもその作曲家にとっての必要程度としてあればいいわけで。
この時期にこれをやっておかなければもう遅い、というようなことはなにもない。
作曲をするための能力というのはいつだって伸ばせるし、それから話はちょっとずれるけど、昔は、ええとつまり、青い偽物のベートーベンだった頃は、ですね、作曲家として成長したいなんて考えるのはいまの自分(そのときの自分)に対して失礼だし、そんなことではいい音楽なんて書けるわけがない、習作なんて言葉は自分の辞書にはない、いつだって全力投球で傑作を書いているつもりでした。
そうやってアリンコなりに全力で書いた曲は、拙かろうが音楽としてちゃんとしています(と私は思う)。
土俵に上げてもらえない、ということは少なくともないということが言いたいのね。
定価650円!なんて書いてあるぼろぼろの全音楽譜ハノン(昔はビニールのカバーみたいなものがついていましたね)と向き合いながら、そんなことを考えました。

・・・やっぱりなんかクリスマスソングも1曲ぐらいは仕込んでおくべきところです。
でもいま想像しているのは、どういうシチュエーションならハノンのドミファソラソファミが感動的に響くか、もっと言うと、例えば涙を誘う場面として主人公ががたがたのピアノでハノンを弾いていて、みたいな映画のワンシーンはどんな設定がありうるか・・・なんてまあくだらないことをですね。
ははは。
利朗?
お前はエキストラだ。

P
昨日私の所属するゼミの忘年会が行われました。

現代音楽好きが集まるこのゼミ。
顧問は音楽学者、批評家として知られるO先生。

お酒が進み、みんなちょうど良く出来上がってきた23時頃…
私がみんなより先に帰ろうとした時にO先生が
お店の出口まで見送って下さいました。
その際歩きながら先生は私の肩に手をのせ、
「自分のやりたい事を100%やった結果認められなかったら
批評家を馬鹿だと思いなさい。
しかし、自分のコンセプトを明確に持てずにいるのならば
作曲家を馬鹿だと思いなさい。」とおっしゃいました。

これは11月に行ったゼミの演奏会で発表した作品についてのコメントなのですが、
色々と考えさせられます。
自分ではやりたいことをやっているつもりなのですが、
先生からは「目配せをしすぎ」ている様に感じられるそうです。

ただひたすらに、無欲に、自分の表現ができる様になりたい、
と思いました。

マザーアースO
前回の石若先生情報にM・Nさんから補足投稿を頂きましたので紹介させて頂きます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
石若先生の作品は難曲もあるけれど、広く一般の方にも伝わるような作品も、手がけておられ幅広くファンを作るのでは?と思います。

 石若先生は、人の心の原点に立たれて(ちょっと大袈裟な表現ですが)音楽というもにに優しくアプローチされ、人間の奥底にある心に語り掛けるような(年代を超え)そういうものを目指しておられるのかな、と感じています。

 合唱音楽は、本当に心から愛しておられますしね。
ご自分も、テナーとして 他の合唱団に 出演されることもあり、とても楽しそうにイキイキとした表情で 身体から音楽が滲んでくるような雰囲気で歌われます。もちろん声楽家のような、独特な声質ではないのですが合唱団員の一員として、ジグソーパズルの一つになったような丁寧さで、臨まれます。
素敵だなあ、と思います。

M・N
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「え、なに、ダブルフラットちゃんと買ってんだ、えらいなー」
「まあ、いちおうっすけど。やっぱ形違いますからね」
「でもさあ、なんでダブルフラット10個入りとかねえんだろ。そんな使うわけねえじゃん」

 ヤ○ハの臨時記号売り場に置いていあるダブルフラット30個入りはだいたい日焼けしているか埃をかぶっている。利朗もシャープやフラットは普通100個入りを買うしお金のあるときは「お徳用300」を買っているのだがダブルフラットはいままで買ったことがない。アレンジなどで調性のある曲を書く場合でもダブルフラットはそうそう使うものではないし、普通のフラットをふたつ並べればとりあえずはごまかせるからだ。ただし本来のスペース以上に詰めて並べないと見た目が悪いのでそこは少し力を入れてスペースを詰めることになる。そうやって並べたフラットは気をつけていないとときどき知らぬまに脱落してしまったりする。「ピタット幅寄せ瞬間ダブフラ」なんて商品も同じ棚に並んではいるがそれよりもせめて10個入りのパッケージで売ればいいのにと思いつつ、曲が書けるやつはやっぱりちゃんとダブルフラット買うんだな、と利朗は山崎の楽譜を思い出した。

「こないだ長野の実家からこーんな段ボール送られてきて」
「ああ、実家長野か」
「ええ、そうなんですけど、もう全部シャープなんですよ」
「まじ?いいなー、って実家なにやってんだよ」
「や、普通の農家ですけど。ほら、長野はセグロアシナガ多いんで」
「そうだっけ」
「にいちゃんのためにがんばってしゃーぷあつめました、おんがくがんばってくださいなんて手紙付きで送られてきたんすけどこれ、食えるわけじゃないし」
「それで食え、ってことだろが」

 作曲は五線紙と鉛筆と消しゴムだけあればすむから経済的な職業だ、なんて言っていたのは遠い昔のことだ。高畑先生の若い頃は実際そうだったらしいがもう今では作曲をするのも何かと金がかかる。臨時記号は付けられた音符一つのみに有効、なんて楽譜をときどき見かけるがすぐさま利朗は初版年を確認する癖がついてしまった。それが最近の年であれば、ああこの作曲家は儲かってんだな、いいな、と思うわけである。湯水のような臨時記号。

「取ったことある?」
「え?」
「セグロ」
「あ、や、ないっす」
「素人には無理かなあ」
「ああー、やっぱやめたほうがいいんじゃないすか。まあ僕長野だから見たことはありますけど、実際結構怖いっすよ」
「うーん」
「アキバあたりに売ってるやつじゃだめっすか」
「あれはさー、質が悪いよ」
「あ、でもあれは質じゃなくてなんか種類が違うっていうか」
「だから違うんだろ」
「そう、台湾産っすからね」

 利朗も秋葉原でおそろしく値段の安い臨時記号を買ったことがある。袋入りだった。使えなかった。フォントが違うだけの話なのだが、いや、実際そのフォントで書いている国でもあれは若干の不良品が混じっていることは前提の商品なのかもしれない。いやいや、その地域で採取された臨時記号が持っている性質はその地域で発展してきた音楽と密接な関わりを持っているはずなのだから、ということはあの音程の悪さ、もとい偶発的な音程の微妙な変化、言い換えればあー、なんだ、ニュアンスか?それは袋小路に陥っている自分にとって何かの起爆剤になりうるかもしれないと利朗は思った。
(溺れるものは臨時記号をもすがる)
(何を言うか)
(表現は自分の中から出すものだろう?)
(出てきたものが自分の表現だと言って何が悪い?)
何かすばらしい思いつきをしたある夜の夢の中のように、どちらが悪魔でどちらが天使かわからない攻防があった。もうどちらでもよかった。

「共同購入って話があるんですよ」
「微分音?」
「そおっす」
「使わねーからなー、俺」
「でものっとかないといつ買えるかわかんないっすよ」
「まあな」
「でも邦楽器使うじゃないすか、利朗さん」
「まあね」
「どこで買ってんすか、あの、なんでしたっけ」
「押しとかか?」
「そう、それ。あの矢印どこで売ってんですか」

 邦楽用特殊記号のお求めはマザーアースまで。
(ウソです)

P